大根らしく描くことが目的ではい。
大人はついつい、らしく見えるかを気にしてしまう。
自分が何を感じたか大切。

Izumi Matsunaga shared 浅羽聡美’s photo.
昨日と今日は、保育園の年中(4,5才児)クラスで大根を描いてきました。縦長の大きな画面は、墨汁の線と相まって新年の描き初めにふさわしい作品になりました。制作後の担任の先生との振り返りでは、モチーフ(対象物)があっても、制作中も完成した作品のギャラリートークの場面でも、子どもたちは大根らしく見えるかどうかで作品に優劣をつけることは全くなく、それぞれの作品のよさを感じて対話していた反面、~らしく、きれいに描けているかで作品を評価してしまうお母さんがいたことが話題になりました。そこで、展示した作品と一緒に下記の文章を掲示しました。願いを込めて、諦めずに繰り返し伝え続けていこうと思います。

「見たままの横暴は排除しなくてはならない…」~K・ニコライデス『デッサンの道しるべ』
本物の大根を用意して描いていますが、「大根らしく」描くことが最終的な目的ではありません。大根を通して、何を感じるかは子どもたち一人ひとり違います。そっくりに描くのではなく、自分が感じたことを表現するために描いています。 ある子は、オイルパステル、様々な紙、色和紙、墨汁という素材がぶつかり合うことで生まれる色やタッチの魅力を発見し、大根の固有色を超えてその面白さを自分の画面に持ち込んでいます。色や線が「何か」を表わすものである必要はなく、この色をここに入れると合う、他の色が引き立つ、この線があるとってもいい感じがする…といった純粋な造形感覚で描いています。周囲を墨で潰すことで、真ん中の大根を引き立たせている作品も見られます。また、一見白い大根の実に墨を加えることで、独特の質感を表現している子もいます。そういうとき、「これは何?」という質問を私たちはしません。理由づけは、純粋な造形感覚の表出を阻むものだからです。
そしてある子は、大根を描いていく過程で、そこに地中の世界を見たり、他の植物が出てきたり、山の風景が見えてきたり…大根から新しいストーリーが生まれています。そうなったら、大根から自由に発展していいことが描くことの醍醐味です。
もちろん、じっくりと目の前の大根に向き合って描くことで生まれる表現も素晴らしいものです。
今回は、サインを画面に入れる子が多かったですが、文字も絵も堺はなく、墨の黒の線の表情として絵の一部になっています。文字を何個も連ねる、それを塗りつぶす等のやり取りで出てきた墨の表情が、最終的に絵全体を引き立たせている作品もあります。
制作後の鑑賞会では、子どもたちは「大根らしい」かどうかという見方に偏ることなく、それぞれの唯一無二の表現の魅力を感じとって、それを言葉にして伝え合っていました。
「~らしく」「きれいに」「上手に」といった多くの大人が絵画に対して持つ既成概念が子どもたちにはありません。柔軟でしなやかな子どもたちの感性が損なわれることなく、このまま自信をもって表現していってほしいと思っています。